ARIKA’s blog

気が付けば好きなことごちゃまぜでお送りしている”ありか”のブログです。

来週病院。

頭の中は無駄に常に考えがノンストップ。

薬を飲んでないからか。

そう考えると

そんなに自覚してなかったけれど

ちゃんと効いてたのかもしれない。

今月病院行けてなくて飲めてない。

これが天然の私なのだろうけど、

結局薬に頼ってるけれど、

そうしかできないのかな。

天然の私は自分も周りも苦しいなら

薬が必要になるのかな。

悲しいけど、

でもちからをかりないと今は。

ポンコツだからそうやっていかなきゃ

自分責めても仕方ない。

ちゃんとした治療してるのだから

知識のない人から何か言われても

悲しいけれど

それは知識がないからだし

ちゃんと前向きにやってるのだから

大丈夫だから、

ここで自分を肯定したことを

残さないとまたすぐ忘れて

自分を否定しだすから

みっともないかもしれないけれど

私はここでなんとか肯定していく。

来週まで、この調子が続くかもしれないけど

頑張ろう。大丈夫。天然状態になってるだけだ。

来週になれば少しましになるから、

あと少し。あと2日頑張れ自分にまけるな。

 

外側

ゆっくりなのは

私の外側

私の中は高速でなにかを紡ぎ出して

とまらないのに

外に出す力が全く足りていない

 

溜まって溜まって

私の外側と内側の

ギャップがありすぎる

 

まだこんなところで

一つ一つしかできないのかと

自分に苛立ちなから

さっききいたことばも忘れる

あなたに言ったことばも忘れる

 

私をダメ人間だと

思うなら

たぶんもう

そうなのではないかしら

 

これほどまで期待を

裏切ってきた人間を

誰も信用しない

誰も信用しない

 

私は一度も

裏切ったことなんかないのに

世界は

予測でできてる

だから

私もだんだん

予測で考えてしまう

 

そして

本当じゃないことよりも

予測を優先してしまうのか

 

本当の姿はどこだろう

私の本当の姿

きみの本当の姿

完璧であろうはずもない

けれども

とてつもない密度のなかにある

姿

 

自分が何をしてきたのか

少なくとも

自分がわかってあげたい

 

寝たきりでも

言葉を発せなくても

あなたは今も

懸命に生きている

そのあなたを今も思う

 

一つ一つに

手を差し伸べられないけれど

あなたから貰った思い出も

厳しいことばも

楽しい時間も

 

あなたに

私の歌を一度だけ

聴いてもらったあのひ

とても嬉しくて

心がどっかにいきました

あれが私の本当の姿でしょう

 

あなたは

私が姪として生まれたときに

初めて叔父さんになって

可愛がってくれてました

 

叔父さん

今も

その家族も闘ってる

謝らない人たちに

悲しみながら

苦しみながら

 

だけどそれだけではない

救いを手段を

何もできない私だから

出来ることがあるかもしれない

いや

何かしたいただそれだけを

もしかすれば

外側は

無関心だけの存在だけど

会いたかった

話したい今も

もう会えないと言われてから

けれどまだあなたは

そこで生きようとしてて

その心はもう

私と交わすことはないのかもしれないけれど

私は何ができるだろう

 

ゆっくり

でも

私はそこに行く

周囲が

求めるものとは違うかもしれないけれど

いいんだ

それで

私が求めるものでいいんだ

あとは付随するのみ

一つ一ついこう

今までの事が繋がって

出来るだけ

生きてるうちに

焦り過ぎるとすぐ

振り出しに戻る

融通きかぬ人間だけど

一つ一つだ

ここで自分を出すのは

本当は

恥ずかしいことこもしれないし

自己陶酔にもみえるかもしれないし

言い訳に見えるかもしれない

 

どうみえるかは

いくらでも想像できてしまうけれど

その時

どこにいるかだ

さあ、とまらずにいこう

ゆっくりいこう

 

 

自然に

自然に還りたい。

 

既に幾度も

自然に逆らい抗い生きてる私の口が言う。

 

逃げだろうか。

 

当事者であり

visitorである。

 

束の間のこと。

 

優しくなんかない。

思いやりなんてもんもない。

必要かどうか、それだけ。

 

出来るだけ

守るのではなく、

曝け出したい。

曝け出せは、

あなたは判断できる。

あなたは受け入れることも

逃げることもできる。

それでいい。

アレルギー

つい数日前に、甥っ子が救急搬送。

 

蕎麦アレルギーだった。

また、乳製品のアレルギーもあると判明。

 

花粉症なども含めて、

さまざまなアレルギーは存在する。

体が過剰に自身を守るために出す反応が

自身を攻撃してしまう、

アレルギー。

とても身近ながら、まだまだ不明な点が多い。

軽度から重度まで其々であり、

軽視はできないことである。

 

甥っ子は搬送されたが、

呼吸困難までは至らなかった。

が、かなり身体のあらゆる箇所が晴れ上がり、

治療がほどこされ、今は通常までもどったが、

日常、油断はできないことがわかった。

重篤症状に至らず幸いだった。

 

多分、妹はこれから

育児にかかわるばめんでも、

精神面でも

大変気を使ったりしていくことであろう。

妹自身も、アナフィラキシーを体験してるので、

親族としても、可能な限りの知識をもって

しかし堅苦しくなく、アイデアとユーモアで

本人たちが苦しまずに、健やかに生きていける方法を一緒に考えられたらと思っている。

 

発達障害に関する記事

個人的に、発達障害に関して述べられている記事で

比較的的確だと思えるものを、こちらに集めてみました。

 

https://m.huffingtonpost.jp/2017/08/03/diamond-adult-developmental-disability_n_17668714.html

上の記事では、発達障害を「障害」ではなく「病気」として発信していることに違和感はありますが、コミュニケーションに関する問題点やどこに改善点が必要か、実生活に活かせわかりやすく述べられていて、悩まれている方には視点をシフトしてよりコミュニケーションしやすさを様々な面で互いに見つけあうことで、環境は良くなることを示していると感じることができます。

 

発達障害と一言で述べても、その原因も特性も万別であり、一つの方法でどうにかなるものではないし、それなりの時間を割いて分析してかかとが必要になりますが、それらがかなわない環境であるほど、向かないコミュニケーションを強いられるほどに心は閉ざされていくことにもなります。

 

伝える、ことは、もっともっとシンプルなことだと感じています。そのシンプルな原点に、伝えにくさ、受け取りにくさ、があるままに、生きるための術を身につけていきます。

それは受け止め方次第でもあり、どちらかだけの問題ではなく、その先にある、それによって何をそのあと行ったか、がまた次のコミュニケーションにつながります。

それで乗り越えられることもあれば、上手くいかずに挫折もある。もちろんそれぞれの目標、目的が違うなかで、何を基準にして接していくのがよいのか?それの一つ一つを考えると思えば途方にくれるでしょう。

 

けれども、今沢山の研究や医療が進み、解明されてきてる部分も沢山あります。なによりも、個性であり生きにくさでもある本人にとって、何がおきているか、を突き止めるだけの余裕が環境に無ければ、これもまた望ましいコミュニケーションを引き出せません。

 

発達障害、または他の障害や病気、それらを今かかえていない人からすると、現状続けられていること、頑張ることで生活を保てる出来る人ほど責任や仕事を課せられてしまう現実もあり、なおさら持続することなど身を守りがちになります。互いに過剰に身を守ろうとする状態、いわゆるアレルギーのような人間関係が起こり、それが障害の理解をする間もなく、そうした状況的に理解し難くなる、これもまた一つのコミュニケーション発作を生む原因となってると感じます。

 

全てがうまくいく。そんな世の中は無いと思います。けれども、それぞれの意見を伝える方法、それがなるべくして本人らしさが基本であるか、それを保ち、他を侵害しないその方法というのは、状況によって人によってさまざまであり、受け取り方も様々ですが、最もシンプルな、其々に過度なストレスとならない合理的配慮を、その場の最低限の必要に合わせて行動できる環境を作れないかと考えることがあります。勿論簡単ではないし、それらが難しい現状を乗り越えなければ得られないものではあります。簡単なことだとは思っていませんが、それをしないのは、自分自身の首を絞める行為であると私自身は考えます。

 

その具体的な方法のヒントを、以下のサイトではそれぞれの症例によって、また本人だけではなく、周囲がとう接すると良いかが、専門家や当事者やその家族の目線とてもわかりやすく解説しているサイトがあります。

https://h-navi.jp/

 

 

 

 

したいことをする。

不安の原因の中に、

まだ私の中には

共依存にあったときの名残があると感じる。

 

不安が強くなっているとき、

自分がどうしたいか、より

相手の感情を優先してしまう。

それを求められ、

長年その中で

自分自身のやりたいことしてきたことを

否定され、

真っ向から踏みにじられてきてしまったことに

まだ拗ねているからだ。

 

しかし、

それではいけない。

 

自分がきもちわるい、と感じることがある。

あまりにも本気を出しすぎてるとき、

どこか相手に合わせすぎてるきがしたり、

相手の迷惑になるかもしれない

と考えてしまうとき、

さまざまな意味で

自己否定の感覚におそわれて、

本当の気持ち、本当にしたいこと、

届けたいことを再び

隠し込もうとしてしまう。

 

昨日もそうだ。

 

とても励まされてるような気がして、

私はその足を向かわせていた。

嬉しくて、

私は今その近くにいる、ということを

届けたら嬉しいんじゃないかと

思った。

 

だけど、それが

もしかしたらとてつもなく

相手にとって嫌なことならどうする?

という思考が働き出してしまう。

ここで自己肯定が下がり、

相手の様子を伺ってしまい

とてつもない不安に陥る。

 

だが

もしそれが、ドンびかれようが、

受け入れられようがられまいが、

私はそういう人間である。

したことが、私の本質だろう?

したいことをしたのだろう??

 

ならば、これでいいはずなんだ。

正解不正解は関係ない。

それが自分かどうか、なのだ。

 

嬉しかったから届けた。

これをもし矯正したら

また依存になる。

 

こんな私でいいですか?とか

こんなことしててまちがいないですか?

とか、

確認してしまうことが

自分の判断を低下させている。

 

だけど

困らせたくないのも本当だから、

今はその確認してる自分も肯定しなければ。

 

私が、それをしたいと思ってしてるときに、

それはしてあげてるなどという

陶酔に陥ることなく、

私がしたいからしてる

自分が考えた上でしてることを

自分自身が認めること。

 

私は私をもっと好きにならなければ

もっと大切にしなければならない。

 

私は誰かのために生きる必要はない。

 

誰かの呪いの言葉、

人のために生きろ、

なんてことをしてはならない。

 

人のためになった、

は付随である。

結果的になれば良い。

逆になっては

世の中共依存だらけになる。

正直その傾向が強い世の中だけど。

 

私がしたいから、してる、

それだけでいいんだ。

それが自分を救う。

困るかもしれない、悲しむかもしれない、

それは、自分の判断でいい。

それが自分の気持ちなら、それを肯定したらいい。

それが判断する、ということのはず。

全てを確認するのは、

判断とはちがう。

もちろん確認することを判断すればよいのだが、

それが判断でなく

単なるルールとしておこなってしまっては

意味がないのだ。

 

だから、自分よ、

安心しろ。私は判断して行なっている。

ルールだからやってる、

誰かに言われたからやってる、訳じゃない。

これでいい。大丈夫だ。

 

どんなに否定されても、

私は自分を否定するな。

私は私を肯定しろ。

 

不安

私が時々落ちいる不安感は、

いわゆる、

何かを始めることに、臆病になる、

ような不安ではない。

何かを始めようとすることや、

関わることへの恐怖感は

さほどないし、

新しい環境は、むしろ

リセットできて、心が楽になる。

 

今、不安が強い。

 

自分が喜んだり、楽しんだり、

ハイになると

急激に恐怖感に陥る。

気持ちの起伏のせいなのかなと

思っていたが、

それもあるが、

自分が楽しんでるときに

喜んでるときに、

それによって

迷惑だと感じる人も、

怖いと感じる人、

つらいと感じる人の

存在を急に感じてしまい

自分自身にぎゅっと蓋をしたくなってしまうほど

いや、

蓋したいわけもないが、

本当は解放したいのだが、

自分自身に急ブレーキをかける。

 

今その状態。

どちらかというと、

ハイな状態に入っていて、

自分がやってることは、大丈夫なのか?

という、不安になる。

なぜか自分のしてることを

うまく把握できてない。

 

仕事上など

やりとりは普通に行えてるのだが、

自分の好きなこと、

楽しいこと、

嬉しいこと、

一気にボルテージが上がりすぎて

安全装置が急に入るような。

 

このところ、

嬉しいことと、

辛いこと、

環境の変化、

目が回るように起こってて、

特に嬉しいこともあって、

心の底からそのまんま

嬉しさを出したいのに、

何かがセーブさせる。

 

たぶん、

自分の失敗経験だろう。

それはその行動を辞めるということではなく、

意識がストレスで白紙にみせる状態。

 

許される状態で

私は喜びたい。

感謝したい。

苦しみや悲しみを伝えたいのではなく、

嬉しさ、感動、

その時間の喜びを伝えたい。

それを自ら抑え込んでいる。

 

喜ぶことや、嬉しさを伝えることじたいが

とてつもなく、怖いんだ。

私が喜ぶと、

あなたを苦しめるのではないかと

そんな反比例な不安が自分を抑え込む。

 

喜びたい。笑いたい。

本当の嬉しさを伝えたい。

なのになぜ不安になるのか。

自分にもわからない。

 

そのままだけを伝えたい。

なのにそれが一番不安だ。

受け入れられなかったっていいはずなのに、

それでも苦しみになってはならないと感じる。

 

なるべく

選べるといいのにと思う。

なるべく

わかりやすくどうであるか

わかった上で

私が喜んでも楽しんでも

あなたが苦しまないことがわかればいいけど、

きっとそれはわからない。

 

受け入れられない、だけならいい。

大切な人を苦しめてしまうのがこわい。

考えすぎないように。

そう思ってる。

そのままを伝えたい。

そのままになりたい。