ARIKA’s blog

気が付けば好きなことごちゃまぜでお送りしている”ありか”のブログです。

目が見えてるだけでは、顔を認識できない。

そんなことばをみかけた。

 

これは、AIに裸婦像を描かせてみると、

顔のパーツ部分の表現にいたっていないというところ。

 

AIも、どの程度までの学習でそこまでできるのか、

詳しいわけではないのでわからないけれど、

その中のコメントのなかに、

目が見えているだけでは顔を認識できない、

というコメントをのせているひとがいた。

 

あたりまえ、といえばあたりまえなのだが、

見える、という機能と、

判断する、という機能は全く別である。

 

見えていても、

それがそれであることを判断し、

さらにそれを表現方法をえらんで、

そこでさらにその表現方法で表現し出力するということが

とてつもなく複雑なことなのだが、

それを人間はしている、ということなのだ。

 

人間はそれほど複雑なことをしているわけで、

どこかが苦手、どこかが得意というところ以前に、

もしどこかに故障があれば、

それらが正常に機能しない、なんてことは、

至って不思議なことでもなんでもなく、

そこを出来るようにする、ということが、

出来る人ももちろんいるが、

どれほど努力しても伸びていかない場合には、

入力する部分、分析する部分、動力部分、

機能の性能の部分、出力方法の部分、

さらには、

学び方、歴史、

さらには、

エネルギーの放出の

それぞれの差がそれぞれであるわけであり、

なぜそれが同じではなければならないのか、

もしそれが出来なければ、

当然理解は難しいわけではあるが、

自分と相手が、それでも同じだけ

リスクと可能性があるからこそ、

上でもなければ下でもない、

ということもまた、

同じことはないわけなので、

わかりあえない、ということが起こるのもまた、

受け入れられようが、られまいが、

事実として起こる事象だと思う。

 

これも、

成長の中で、どのようにしてきたか、

また、どのように、自分をまもろうとするのか、

犠牲にするのか、

それらがそれぞれに違うように、

また、大切とするものがそれぞれちがうように。

 

それだけに、

同じ様にしていこう、という

考えに至るばあいももちろんあり、

そうした考えが正しくもあり、

また間違えである。

わかりやすさには、

ある程度の定規が必要だから、

守るためには、必要なるし、

その一つがこうして今も私がつかう

言葉だったりもする。

表情たったり、

行動だったり、

声色だったり。

それらをAIが理解するには、

とてつもない計算が必要であるということもいえるんだろう。

 

良い、悪い、ではなく、

何かに注ぎ込んだり、

逆に分散させるのもまた、

自然な現象ではあるとおもう。

 

どうであれ、

エネルギーは、

無限ではない。

命は無限ではないので、

どう判断するか、

判断もまた、

複雑な理由が混在しているのだから、

もう、

それぞれがまた正解、それぞれがまた間違えている。

だから、いくらでも近づけるし、

いくらでも逃げることができる。